私は紙の新聞が好きだ。
インクの少し苦みのある香りと大きな紙面は、父を思い出させる。
子供のころ、いつも朝の食卓で、大きな紙面越しにのぞく父の真剣なまなざしは、
私にとって、あこがれだった。
大人の世界を、一瞬でも感じることができたからだ。
冷たくて、こわくて、子供のころの私にとって近寄りがたい世界。
だけど、ほんのちょっぴりわくわく感のある世界。
父のまなざしは、そんな大人の世界を感じさせてくれた。
大きな紙面には、色々な出来事が載っていた。
だが、あの頃の私には、もちろんそれらの記事の意味など分かりはしなかった。
金と女にまみれた、政治家の汚職記事。
スポーツのスター選手の活躍の記事。
そんな様々な記事をそのころの私は、いつも素通りしていた。
ただ、唯一、素通りできないものがあった。
身の毛もよだつような凶悪な犯罪記事だ。
それは、第一面に大きく掲載されている場合もあったし、紙面の隅のほうに
小さく掲載されている場合もあった。
ただ、紙面のどこかには、必ずと言っていいほど、その写真はあった。
あのころから世の中はそれほど、平和ではなかったということだろう。
彼らは、暗闇の世界からこちらをじっとにらみつけていた。
そのころの私にとって、彼らは恐怖の対象でしかなかった。
映りの悪い白黒写真だから、なおさらだろう。
そして、その写真の奥の世界に思いを馳せないわけにはいかなかった。
あの頃、家族でこんな会話をしたことを覚えている。
父がいつものように大きく広げて新聞を読んている、その対面で私と妹の由香が
ささやきあっていた。
「おい、由香、あれ見てみろよ」
「わたしは、今、ごはんに集中しているんだから、話しかけないで!」
「わかったよ。ごめん。でも、ちょっとだけ、目線をあげてみて」
由香はおそるおそる目線を上げた。
「きゃっ! なに、あのお化け?」
「お化けじゃないよ。ただの写真だろ」
すると、父が新聞の向こう側から話かけてきた。
「お前たち、何こそこそやってるんだ。はやく朝ごはんを食べてしまいなさい」
「だって、お兄ちゃんが、へんな写真を見せてくるんだもん」
「写真? ああ、これか!」
父はそういうと、新聞紙を裏に向けて、その不気味な写真を見た。
「これは悪い人のことをした人の写真だよ。大丈夫。
この男は、もう捕まっているから、お前たちを傷つけることはないよ」
「だって、そんなに怖い顔で、こっちをにらみつけているんだもの…」
「ははっ、大丈夫だって!
この日本には警察があるから、こんな奴ら、捕まえてくれるからね」
二人の会話を聞いていた私は、唐突にこんなことを言った。
「それじゃ、おれが警察官になって、悪い奴らを捕まえてやるんだ!」
「よし! 頼もしいな!」と父は言った。
妹をみると、ぽかんと口を開けて、こちらを見ていた。
「兄ちゃんにそんなことできるわけないよ…」
結局、お前は警察官になったのかだって?
私が本当に警察官になれたのか、なれなかったのか?
まあ、世の中、色々とありますからね。
ただ、わずかでも世の中の一員として、お役にたてることを
やっているということだけは言えます…。
ご想像にお任せします。
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