僕はゴーストじゃない。
今、ここで息をしている人間だ。
「それじゃ、お前はあの時、なぜ、動くことができなかったんだ?
彼女、助けを求めていただろう?」
もう一人の僕が言った。
「うるさい! 黙れ! 僕には心の準備が必要なんだ。
動くまでに、どうしても時間がかかってしまうんだ」
もう一人の僕は冷静だった。執拗に僕の弱いところを突いてくる。
「横から出てきた、あの男はどうだった?
やつは心の準備なんか、必要とせずに、すぐに動くことができたよな。
その差はなんだ?」
「それは…、普段からの心構えというか…」
「本当にあの子を助けたかったのなら、『心構え』なんて関係なく、
自然と体が動いていたはずだ。違うか?」
僕は何も言い返すことができなかった。
その日、僕は毎日使っている、通学の電車の中で彼女を見かけた。
いや、正直に言うと、僕は毎日、彼女の姿を追いかけていた。
毎日、同じ電車の同じ場所。
僕の家の最寄りの駅を7時15分に出る電車の、3両目の前から2番目の
つり革のあたりだ。
僕はそこから約50メートルほど離れたところから、時々彼女を見ていた。
(もちろん、素知らぬ風をして)
彼女の容貌は、群を抜いていた。
視線はどこを見るともなく、窓の外をぼんやりとながめているといういった風だった。
彼女の髪は長く、窓からの光で、それは黄金のように輝いていた。
その光を放った宝石は、僕以外の男たちの目も引いたということだろう。
その日、3人のチンピラ風の学生たちが彼女の周りをとりまいていた。
1人のリーダー格の男は彼女にしきりに何か話しかけ、他の2人は周りではやしたてていた。
彼女は3人を無視しようとしながらも、弱々しくリーダー格の男の話しかけに答えていた。
髪を立てたリーダー格の男は大柄で、けんかも強そうだった。
僕は思わず右手を握りしめ、必死で自分自身にこう言い続けていた。
「僕はゴーストじゃない。今からやつらに近づいて行って、叩きのめしてやるんだ」
だが、体が動かなかった。まるで足の上に重しが乗っているような感覚だった。
頭の中では「やつらを叩きのめすんだ」と繰り返していたが、体が言うことを聞かなかった。
握った右のこぶしは、かすかに震え始めていた。
僕は自分自身のやるせなさに絶望していた…
リーダー格の男が彼女の腕に手をかけた瞬間だった。
サラリーマン風の男性が、「電車の中だぞ! それぐらいにしておけ」とリーダー格の男に言い放った。
サラリーマンの男は背丈はリーダー格の男と同じくらいだったが、がっちりしていて、声も落ち着いていた。
リーダー格の男は一瞬何か言い返そうとしたようだが、他の2人が声も出せずにいるのをみて、ためらったようだった。
そのまま口をつむんで、下を向いた。
その後は3人も静かになり、いつものありふれた光景に戻っていった。
彼女はサラリーマンの男のほうを向いて、お礼を言ったようだった。
そう、これがゴーストのような男の悲しい顛末だ。
僕は何も行動を起こせないまま、右手を握りしめていただけだった。
ふと見ると、爪があたっていた、手のひらのあたりから血がにじんでいた。
痛さも感じなかった…
「僕には心の準備が必要だった」と何度、もう一人の自分に語り掛けても、結果は同じだった。
僕の体は透明じゃない!
ちゃんと実在している!
だが、あの時、僕は存在しなかった。
右手を強く握りしめても、何も変わらなかった。
僕はゴーストのまま、生きるしかないのだろう…
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