おーい、アスラーン。
あいつ、本当にアブジャに旅立ったのかなあ。
アスランは昨夜から消息を絶った。
おれはアスランがどこへ行ったのかを知っている。
アブジャに新天地を求めて旅立ったのだ。
おれにとって、それはうらやましいことだった。
うらやましさは、彼の行動力のあこがれに向かっていた。
また、アスランという未知な男を再考させらる出来事でもあった。
彼はまさに、おれにとって「得体の知れない」男であった。
アスランは今日、職場に来なかった。
朝礼の後、上長が心配しておれに話しかけてきた。
「おい、マリク。アスランが出勤していないようだけど、何か聞いてる?」
アスランが朝から来ていないことには、気づいていた。
彼はいつも始業時刻ぎりぎりに来ていたから、朝礼には間に合うと思っていたが、そうではなかったようだ。
彼の席の周りの女子社員も何かうわさ話を始めたようだ。
「いえ、何も聞いていません」
「そうか、やつが来たら、私のところまでくるように言っておいてくれ」
「わかりました」
おれは別にアスランの子守じゃないと思って嫌な気がしたが、残念ながら、おれには心当たりがあった。
前々日におれは彼とこんな会話をしていた。
「おれ、マウザに告白してみるよ」
マウザは職場でも美人で有名な女子社員だ。
他の女性にはない、独特の色気があって、男性を骨抜きにする魔力を持っていた。
まさに高嶺の花といった存在で、おれなんかには手の届かない存在だとあきらめていた。
もっと手ごろな女性がいくらでもいたし、その方が気が楽だった。
だが、アスランにとってはそうじゃなかったようだ。
「えっ、あのマウザにか?」
「そうだよ。他にいるか?」
「やめとけよ。マウザは無理だって」
「どうしてだめだとわかる? やってみなきゃ、わからないだろう… それに天地だってひっくり返ることもあるんだぜ」
おれはあきれて、しばらくアスランの顔を眺めた。
どこからそんな能天気な発想が出てくるのかを探りたかったのだ。
「お前がもちろん、どうしても告白したいっていうのなら、おれに止める権利はない。
もしかして、玉砕するのもお前にとっては、いいかもしれない」
「いや、おれは玉砕するつもりはない。本気でマウザを狙いにいってるんだ」
おれはもう一度彼の顔を見つめた。
そして、この物わかりの悪い目の前の男が憎らしくなってきた。
いっそ、マウザに振られてしまえと思った。
「わかった。それなら、やってみろ。別におれの許可は求めていないとおもうけど」
「そうだな。おれもお前の許可を取りにきたわけじゃない」
「わかった。お前にはもう何も言わない。でも、一つだけ、教えてほしい。なぜ、このタイミングで告白する気になったのか。その事だけ、教えてほしい」
アスランは誇らしげに胸を反らせて、その言葉を言った。
「アブジャにある、ブハリの選挙委員会に応募したんだよ。来月から来てくれってさ」
「えっ、まさか、そんな…」
私は目の前の男がわからなくなっていた。
ブハリの選挙委員会は、テロ組織の前衛組織であることは、誰でも知っている。
この選挙委員会で認められた者が、テロ組織の幹部となっていくのだ。
それはテロの渦巻く危険な世界に足を踏み入れることを意味していた。
「そう、そのまさかだよ。驚いただろう。おれは世界を変えてやるんだ」
「アスラン、よく聞けよ。今すぐその組織からは手を引いた方がいい。悪いことは言わないから、やめておけ」
「なあ、マリク。おれの前途に水を差すのはやめてくれ。おれはお前ら一般人と違って、根っからの戦士なんだよ。だから、仕方ないんだ」
おれは、目の前の男が急に他人に見えてきた。
いや、言い直そう。
この得体の知れない男には、何を言っても無駄だと思った。
「よし、わかった。頑張ってきてくれ」
「なんだよ。やけに物わかりがよくなったじゃねえか」
おれは、彼と目を合わせずに言った。
「いつ、出発するんだ?」
「1ヶ月後かもしれないし、明日かも知れない。委員会からの通知次第なんだ」
次のテロのスケジュール次第ってわけか、おれはこころにつぶやいた。
「そうか、寂しくなるな。がんばれよ!」
「ありがとう。アブジャに行っても、連絡するよ」
そう言って、おれたちは固く握手をした。
それがアスランとの最後の会話になった。
そう、やつは行ってしまったのだ。
マウザには結局、告白しなかったようだ。
委員会からの通知が、思わぬタイミングで来て、それどころじゃなかったのか、
それとも、彼にとっての神聖な活動に女性は必要ないと判断したのかはわからない。
おそらくその両方だったのだろう。
ともかく、やつは行ってしまった。
この足跡からして、そんなに遠くには行ってないかもしれない。
でも、この追跡は形式上のものだ。
もちろん、おれには彼を追いかける気なんてない。
適当なところまで行って、上長には「やはり見つかりませんでした」と報告すればいい。
アスランとはどんな男だったのだろう。
やつはまさにオールオワノッシングを体現したような男だった。
すべてか全くの無か。
そういう意味では、組織はやつの信条にあっていたのかもしれない。
おそらくやつと会うことは二度とないだろう。
さらば、友よ。
さらば、危険な世界に身を投じる戦士よ。
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