このバーにくると、私は今でも真奈美の笑顔を思い出す。
真奈美はよくカウンターの奥から2番目の席に座って、マスターと話し込んでいた。
私は会社の帰りにこのバーに寄り、私の定位置、真奈美の座っているカウンターの逆の
奥から3番目の席に座ってひとりちびちびやっていたものだ。
私がこの席に座るのは、ほぼ5年振りだ。
このマホガニーのカウンターの匂いがなつかしい。
なぜ、そんなに時間が空いたのか、理由は後で話します。
今、あの席に真奈美はいない。
マスターも変わったようだ。
見たことのない無骨な男だ。どこかの店から流れてきたのだろう。
バーの従業員というより現場で働いている肉体労働者だといったほうが、すんなりくる。
だが、バーのマスターには、あんな無口な男のほうが向いているのかもしれない。
真奈美がいたころのマスターは、明らかにしゃべりすぎだった。
こちらが聞いていないことまで、ぺらぺらとしゃべりまくっていたから、私のように静かに
飲みたい人間には、迷惑と言ってよかった。
真奈美はなぜ、あんな男に愛想よくできていたのか、今でもわからない。
ここから見る真奈美の横顔はいつも輝いていた。
まるで、晴れた日に公園でみる、木漏れ日のような笑顔、といえば大げさだろうか。
そして、私はその笑顔を見るために、このバーに通っていたというわけだ。
真奈美はどちらかという落ち着いた女性だった。
ほんのちょっとした仕草にも色気があった。
一方、私は世間の荒波にのまれた疲れ切った中年サラリーマンだ。
もちろん、こちらからどうこうしようという気は、さらさらなかった。
ただ、彼女の笑顔を見れるだけでよかった。
時々はあのマスターとの会話も聞こえてきた。
あのバカマスターは芸能界のネタだけは、豊富に持っていた…
「あの俳優のXXの演技、どう思う?」
「お笑いのYYの新ネタ、まったく面白くないよね。」
(私はこんな話題ではなく、彼女ともっと知的な話をしてほしかった。
そして私なら、できると思っていた…)
たまには彼女が、自分の近況を語ることもあった。
「この前、友達と新しくできたラーメン屋に行ってきたの。おいしかったよー」
私は彼女の言葉を頭に刻み込んで、彼女の生活を色々と想像してみたりしてみた。
そして、約3カ月後、真奈美はこのバーに来なくなった。
私はその日、店に入って彼女の席をのぞいた時に、彼女がいないことに気づいたから、
一杯だけにしようと思っていた。
すると、あのマスターがめずらしく私に話しかけきた。
「今日は真奈美、いませんよ」
やつは私が彼女目当てだということを知っていたようだった…
「真奈美って?」
「ほら、お客さんがいつもちらちら見ていた、あの席の子ですよ」
「ああ、あの子か。その子がどうしたんだって」
マスターがかすかに苦笑いをしたようだったが、私は無視した。
「真奈美は今日、この店に来ませんし、これからも来ないでしょうね」
私は興味のないふりをして、聞き返した。
「これからも来ないっていうのは?」
「あの子、ここから少し離れたキャバで働いていてたんですけど、客とトラブったみたいなんですよね。
だから、当分は来ないでしょうね。もしかしたら、二度と来ないかも」
私はその言葉を理解するのに時間がかかった。あまりにも情報量が多かったからだ。
じっくりと時間をかけて、言葉の意味がしみこんでくると、バーの上で組んでいた私の手が震えだした。
このバカマスターにそれを気づかれるのが嫌で、手をカウンターの下におろした。
だが、やつはそれに気づき、またもや苦笑いをしていた。
その後は、適当にマスターと話を続け、一杯を飲み終えてからその店を出た。
そう、これが私のささやかな恋のてん末だ。
5年間、私はこの店に来なかったが、時々、真奈美を違う場所で見かけた気がした…
おそらく、気のせいだっただろう。
中年サラリーマンだって、時には恋をする。
そのことだけ、あなたに知ってほしかったのだ。
コメント