雪がすべてを覆いつくしている。
きれいな雪景色だ。
寒さが身に染みる季節が、本格的にやってきたことを実感する。
雪はすべてをシンプルに見せる。
すべてを白で覆いつくしてくれるからだ。
複雑なもの、単純なもの。
きれいなもの、汚いもの。
派手なもの、陰気なもの。
世界に知ってもらいたい、誇らしげなこと。
世界からは隠したい、自分だけの秘密。
夏のように露骨な季節は、それらすべてを世界をさらけ出す。
それらを醜いと感じる者もいるだろう。
もしかして、雪がすべてを覆いつくすシンプルさに、美しさを見出す者もいるかもしれない。
確かに、雪のシンプルさは美しい。
だが、私は考えている。
それらのに混とんとした世界は、冬の間も雪の下でうごめいていることを。
この私が住む、じめじめと腐った、残酷な世界もそうだ。
こんなに静かなで清らかな夜にも、この雪の下で、静かにうごめいている…。
私は今、部屋の窓から、レンズを通して、外の景色を眺めている。
静かな夜だ。
まるで、降り積もった雪がすべての音声を吸収してしまったかのようだ。
目の前の寺院が、白い毛布な雪をすっぽりとかぶっている。
暖かそうなふかふかした、その毛布は、実は身も凍るほど冷たいんだということを忘れてしまいそうになる。
その真っ白な毛布が、真っ赤な血に染まる場面を想像した。
そんな場面には、慣れ切ったつもりだ。
だが…。
この雪の中では、妙に現実感を帯びて、その場面が私の頭の中に居座っている。
「嫌悪感」と言ってもいいほどに。
私は、殺し屋だ。
７年間、粛々とこの仕事を続けてきた。つまり、人を殺し続けてきた。
この仕事はとてもシンプルだ。
依頼人が指定した人物を素早く、確実にあの世に送り届ける。
あいまいなところは一切ない。
念には念を入れているが、こちらが仕留めたと思っても、ターゲットを殺し切れない場合がある。
人間は、案外、丈夫にできているのだ。
その場合は、ターゲットの入院先の病院に行って、最後までやり遂げる。
あなたはそこまでやらなくてもいいのでは、と思うかもしれない。
申し訳ないが、この世界も信用が第一なのだ。
頼まれた仕事は最後までやり切らなきゃならない。
最初のころはライフルを持つ手が震えて仕方がなかった。
スナイパーにとって、この欠点は致命的だった。
手の震えでスコープがずれ、焦点が定まらないからだ。
この欠点は、なんとしても克服しなければならなかった。
一度、この世界に足を踏み入れてしまうと、他の世界で生きていくことは不可能に近いからだ。
この欠点の怖いところは、手の震えを止めようと必死になればなるほど、深みにはまっていくことだった。
この震えのことを考えれば考えるほど、自分自身を圧迫してしまい、永遠のループに呑み込まれてしまう。
私はこの欠点を克服するために、色々な方法を試したが、一番功を奏したのは考え方を根本から変えてしまうことだった。
スコープを通してみる現実が、本物の世界だとは思わないようしたのだ。
まるでゲームのようにスコープの向こう側の世界を架空の世界に置き換えるようにした。
すると、手の震えは、ふっと消えた。まるで、そんなものは最初から存在していなかったかのようだった。
それ以来、私はこの欠点のことを、気に病むことはなくなった。
そう、あの日まで、と言ったほうがいいかもしれない。
私の今日の仕事は、目の前の寺院を通過する男を仕留めるというものだった。
午後１０時前後にここを徒歩で通過すると聞いていた。
また、今回のターゲットは、明日から警察の保護プログラムに入るということだった。
例によって、それ以上の情報はなし。
あえて言えば、後半の情報も聞きたくなかった。
必要以上に、殺し以外のことに関わることを恐れたからだ。
必ずここで仕留めろという暗示だと私は理解した。
ある男が目の前の寺院を徒歩で通りすぎる。私はその男をこのライフルで撃ち殺す。
簡単な仕事のはずだった。
現在、午後７時。
前日から教えられた寺院の前のホテルに滞在していた。
すべての準備は整っていた。
ライフルはすべて組み立てを終えて、スタンドに乗せている。
台尻をかなり上げて、窓からターゲットを狙える形でセッティングしていた。
銃口を窓の隙間から少しだけ出して、目の前の寺院を通る道路を狙っていた。
そして、ひたすら携帯電話が鳴るのを待った。
ターゲットが家を出たら、家の前で待ち伏せしている工作員から、この携帯電話に連絡が入ることになっていた。
窓の隙間から吹く風が、肌を刺すようだ。
窓の向こう側では、暗くなって再び雪が降りだしたようだった。
時おり、窓から入ってきた雪がライフルの黒い銃身に止まって、消えた。
じりじりとした時間だった。
ベッドのサイドテーブルに置いた黒い携帯電話が気になった。
だが、そちらの方は見ないようにした。
それが目に入ってしまうと、時間の流れがさらに遅くなったように感じてしまうからだった。
ターゲットの家の前で待ち伏せている工作員の情報が、今の私にはすべてだった。
相変わらず、時間のたつのが遅かった。
ただ、いつでも仕事にかかれるように、神経は研ぎ澄ましておく必要があった。
だから、時々、窓の外から聞こえるクラクションの音にも、びくりと反応したものだった。
ついに携帯電話が鳴った。
「ターゲットが家を出た。あと１０分ほどで、そちらに着く。すべて順調だが…、一点だけ問題がある」
私は少し動揺したが、冷静を装って言った。
「問題とは？」
「子連れだ。何かの手違いだ。すまん。やつの一人娘のはずだ。そのまま高飛びするつもりかもしれない。必ずやり遂げるんだぞ」
「わかった」
私は電話を切った。
私は窓際の銃を構える位置にゆっくりと移動した。
何か鉛のような重いものが、私の心臓を圧迫しているようだった。
呼吸が早くなっていた。
私は、その娘のイメージを振り払おうとした。
そして、自分に言い聞かせた。
「おれはプロだ。たかが娘一人じゃないか。何とかなるさ」
ライフルを持つ手が震えていた。
克服したと思っていた、手の震えが再発していたのだ。
額を伝う汗が何本も筋になり、スコープを濡らした。
私は何度もハンカチでスコープを拭き取らなければならなかった。
その時、男の姿が見えた。
やはり、男の左には男の手をしっかりと握っている女の子の姿があった。
工作員からの報告の通りだった。
男はグレーのコートにシルクハット。
女の子は青の小さなコートに身を包んでおぼつかない足取りで歩いていた。
手の震えはますますひどくなっていて、納まる様子はなかった。
その事実が、さらに私を追い詰めた。
もう一人の私が言った。
「いっそ二人とも撃ってしまえよ。その方が却って気が楽だぞ。良心なんてとっくの昔に捨てたはずだ。違うか？」
私はもう一人の自分が放った『良心』という言葉に少し驚いた。
今さらおれに「良心」を捨てろというのか？
そもそも、おれに「良心」はあったのか？
この仕事に「良心」は必要なかった。
そんなものは、逆に仕事の邪魔になるだけだった。
だから、私はその考えを振り払おうとした。
だが、できなかった。
スコープが上下左右に揺れ続けていた。
二人の影はさらに近づいていた。
この悪天候で、二人以外に通りに人はいなかった。
私は、男の脳みそが吹っ飛び、赤い鮮血が白い雪に飛び散るさまを想像した。
娘は泣き叫ぶことだろう。
その声は、この静かな通りに響き渡るはずだ。
私はその声を止めるために、ライフルの引き金を引けるだろうか。
私は「これはゲームだ。落ち着け」と自分に言い聞かせた。
二人が私が潜んでいる部屋に最も近づいた時でさえ、私は震えを止めることができずにいた。
ひたすら「これはゲームだ」と自分自身に叫び続けること以外、私はなすすべを知らなかった。
二人が目の前を通り過ぎるとき、私は娘が笑顔で手をつないだ男に話しかけているのが見えた。
「今日は楽しいね」と言っているように見えた。
娘の青いコートが、真っ白な光景の中で浮き立って見えた。
私はそれを美しいと思った。
天使のようだと思った。
二人はそのまま歩き続けた。
私はスコープの焦点を男の後頭部に当てて、最後のチャンスを狙った。
だが、やはり震えのために、焦点が合わなかった。
そのうち、二人の姿は、遠ざかるにつれて、徐々に小さくなっていった。
街灯に遮られ、通行人に遮られ、最後のチャンスすら失ってしまっていた。
二人はそのまま、キラキラと光る町の中心部へと消えていった。
私はその瞬間、すべてをあきらめた。
私は構えていたライフルから離れ、大きく一息ついた。
そして、部屋のソファに身をうずめ、これからのことを考えた。
再び、もう一人の私が語りかけてきた。
「ついにやっちまったな。これから二人を追いかけて行って、仕事をやり切るか、
それとも、その馬鹿面をさげて、死ぬまで身を隠して生きるかだ。
いずれにしても、この仕事をやり切れなかったら、お前は終わりだ」
私はその言葉に何も言い返せずにいた。
なぜなら、その言葉は、核心をついていたからだ。
私の中の「良心」が目覚めたのだろうか？
いや、そうじゃない。
手の震えのせいで、狙いを定めることができなかったからだ。
「その震えはそもそも、お前のクソみたいな『良心』からきたものじゃなかったのか？ どうなんだ？」
確かにそうだ。でも、今から二人を追いかけて行って、二人を殺ることなんてできない。
あの女の子の笑顔が目に焼き付いて離れない。
「お前はどこまで馬鹿なんだ。二人を殺れないんだったら、一生、組織の追手におびえながら生ききゃならないんだぞ」
私はそれを聞いて、こう思った。
それでも仕方ないさ…。
おれにはできないんだから…。
その時、ベッドのサイドテーブルの携帯電話が鳴った。
おそらく組織からの連絡だろう。
もちろん私はこの電話に出るわけにはいかなかった。
８回、着信音が鳴り続けた。
不気味な時間だった。
その後、ようやく切れた。
私は急いで、携帯電話を持ってトイレに移動した。
それから、かかとで携帯電話を粉々にしてから、すべての部品を便器に流し込んだ。
私にもう迷いはなかった。
ライフルをすべて片付け、めぼしい所の指紋を拭き取った。
この部屋では、常に手袋を着けていたが、念のためだった。
そのほかの形跡を、すべて消し去り、ドアのほうへ向かった。
出る前に一度、振り返って室内を見た。
部屋に入るときと出る時で、私の生活は完全に変わってしまった。
部屋に入る前の生活に戻りたいと、一瞬、思ったが、それはできなくなった。
私は素早く部屋を出て、鍵をしめた。
ホテルを出て、私は雪の降る真っ白な世界に飛び出した。
冷たい空気が、身の凍るような寒さを一気に私に思い出させた。
雪は降り続けていたから、辺りは静かだった。
私を雇った組織は、必ず私を追いかけてくるだろう。
だが、後悔はなかった。
なぜなら、こんなに汚れてしまった自分にも、まだ「良心」というものが残っていることを確かめることができたからだ。
これから、地獄のような日々が始まるだろう。
だが、私の中に「良心」がまだ残っていたという事実を誇りに思った。
この面倒でやっかいな「良心」というものを。
そして、それは、今、私の中で、この世界で最も大事なものになっていた。
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