極寒の中で

Life

極寒の中で私はさまよっている。
この辺りはもし、今が1月の下旬でなかったら、静かな街だ。
ところが、この時期はどうだ。
一歩間違えば、凍死しそうな寒さが肌を刺す。
つま先の感覚もすでになくなっている。
吐く息が白く立ちのぼっていく。
体温はどんどん低下し、私の体力を奪っていく。
このまま雪に埋もれて死んでいく人生もいいんじゃないか。
そんなことも考えている。

今日、妻の美代子が家を出て行った。

いつもと同じ朝だった。
ただ、やけに静かだと思った。
いつものように美代子が家事をする物音が全く聞こえてこなかった。
いつもなら私が目覚める時間帯には、朝食の用意などで忙しく動く音が台所のほうから
聞こえてくるはずだった。
私はそれでも「寝坊でもしているんだろう」と考えていた。
今思えば、無意識に、昨日の「気がかりなこと」から目をそらそうとしていたのかもしれない。

実はその前の晩、その「気がかりなこと」があった。
晩御飯のあいだ、テレビをみているときにも美代子は何か考える素振りをみせることがあった。
「今日、何か嫌なことでもあった?」
私は思い切って聞いてみた。
「ううん、別に。ちょっと疲れてるだけ」
私と目を合わせることもなく、再び、自らの世界に戻ってしまった。
その様子は、いつもの美代子とは明らかに違うものだった。
私は気を紛らわせようと話題をわざとそらした。
「今日、同僚の北村が懲りずにまた発注ミスをやらかしてさ…」
そんなことを話している間も、心ここにあらずという様子は変わらなかった。
「ちょっと疲れてるから、先に寝るね。洗い物は明日、やるから」
最後にはそう言い残して、自分の部屋に戻ってしまった。
リビングに一人残された私は、つまらないバラエティー番組に視線を戻した。
おそらく、あの時、美代子はすでに心を決めていたのだろう。

そして、今日、目覚めてから台所へ行くまでに、その「気がかりなこと」が瞬時によみがえってきた。
私のあるく速度は自然に速くなった。台所には美代子はいなかった。
美代子の姿を追い求めて、私は家中を探しまわった。
なんだ、気のせいだったのかと思いたかった。
だが、その希望は見事に打ち砕かれた。
リビングのテーブルに一枚の紙がおいてあった。
その紙には、こんなことが書いてあった。

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【手紙の内容】
この家を出ていきます。
理由は聞かないで…
と言っても、理論家のあなたにとって、理由がとても重要なことなのはわかっています。
だから、少し説明します。
あなたにわかってもらえるか…
それは少し自信がないけど。

そう、私にはちゃんと「理由」があるのです。
理由はひとつ。
すべてが嫌になったの。
あなたにもいろいろと言い分はあると思うけど、ちょっと聞いて。
(今まで真剣に私の言葉に、耳を貸してくれたことなんてなかったけど。)

あなたは結婚してからずっと、「仕事」で忙しかった。
私にもパートはあるし、家事もあったけど、今までは何も言わなかった。
でも、あなたの部屋のテーブルの引き出しにある、「あのもの」を見てから
すべてがどうでもよくなったの。
あなたには「あのもの」が何かはわかるわよね…
結婚してから、もうこれで3回目。
なにかが私の中で吹っ切れました。
私にだって、あなたという重荷から逃れる権利はあるはず。
だから、出ていきます。
それにあなたは、まだ、若いからいろいろなことに挑戦できるけど、
年上の私にとって、やり直すチャンスは限られているの。
おばあちゃあんになってから、今のことを後悔したくない。絶対に。

今日、外は白銀の世界よ。
いつも何かに追われているあなたには、あまり関係がないかもしれないけど。
ちょっと外をのぞいてみるぐらいは、いいんじゃない。
私たちには、たぶん未来はない。
さようなら。
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私は何も考えず家を飛び出した。極寒の世界の中へ。
いっそ、無に帰ってしまえ。
無になって意識がなくなればいい。
意識さえなくなれば、後はこの体が土に帰っていくだけだ。
意識があるから、余計なことまで考えてしまう。
美代子のいない世界。
そんな世界を考えたこともなかった。

「われ思う、故にわれあり」
どこかの哲学者の言葉だ。
人間には意識があるからこそ、人間だという意味だが、
今の私には逆にこの「意識」が重荷だ。

いまいましい意識よ、さあ砕け散ってくれ。
そして、私を違う世界に連れて行っておくれ。

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